私たちの不妊・出産物語_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/
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Chapter 1 病院へ行くまで(1)
「知らぬが仏」の時代
YukiとToshioが結婚したのは、26と30の時です。
平均結婚年齢…、いわゆる適齢期にごくフツーに出会い、結婚して、ごくフツーに「子供は2人か3人、年をとったら仲良くふたりで縁側でコブ茶をすすろう…。」という、ささやかな将来設計のもと、ふたりで生活を始めました。
結婚式のスピーチで「望みは遥かに、実行は足元から」という言葉を贈られたふたりは、それをヒントに「子供の名前はのぞみ・ひかり・こだまにしよう」などと話しては喜んでいました。遠距離恋愛で電話代と新幹線代のために働いていたので、とにかく幸せいっぱい、花いっぱいの毎日で、ふたりのために世界はまわる…日々でした。
「あれれ、Hをしてもできないョ」
しばらくして転勤となり、Yukiの仕事も一段落したので「そろそろ子供を…」と思い始め、せっせと基礎体温を測り、せっせとHをして、生理が遅れるとイソイソと妊娠判定薬を買いに行き、生理が来るとアレレ…とガックリする生活に入りました。
避妊しなければ子供はできるハズ…と、お気楽に思っていたふたりは、だんだんおかしいなと思いつつ、律儀に(?)基礎体温表とにらめっこして自分たちなりに排卵日を考えて、子作りをしていました(約2年間)。この間は子宝の温泉や子授けのお寺を巡って、表面はDINKSを装いつつ内心はあせりながら日を送りました。
周囲の「子供はまだ…?」という声が気になりだしたのも、この頃です。
「うちはまだいいの」と言いつつ、子供が欲しいふたりは「いつ、どこの病院へ行くか…」という迷いや不安がわいてきました。お互い「大丈夫だよ!」と言い合いながら、こういうことをオープンに相談できる人や勇気がなかなか持てなかったのも確かです。
また、Yukiは子供ができたら…と、思うと積極的に仕事もできず、かといって子供のできない中途半端な状況で、仕事に全力投球している後輩や子育てに忙しい友人の狭間で宙ぶらりんで、よくToshioに文句を言っていました。とは言え、漠然とした不安におびえつつも、まだ、もしかして…という希望を捨てることができない毎日でした。
「エッ? 試験管ベビー?!」
いよいよ2年過ぎ、妊娠する気配がないので重い腰を上げて、病院へ行きました。いろいろな検査の結果、Yukiの卵管が造影剤が入らないほどの閉塞で、自然妊娠は100%ムリということが分かりました。
Yuki
病院からの帰り道、バスを待っている間、人目も気にせず泣きました。そして、子供が大好きな主人を思い、もうToshioと別れようと、そのまま実家へ帰ったのです。『私と一緒にいると、一生子供ができない。それなら、今のうちに別れてしまった方がToshioのためだ…』と(それでいて冷静に、自分の預金通帳だけは取りに帰って、ダンナにしっかりしている! と言われましたが…)。幸い、ダンナはその日のうちに連れ帰りに来てくれました。
それでも、公園の家族連れを見ると『自分には一生、ああいう家族ができないんだ…』と思って泣いてばかりいました。」
『体外授精してまで…』と言う人もいますが、普通の病気の時には『これをすれば治る』と言う最新の薬や治療があれば、迷わずそれを使う訳ですから、体外授精がいいと分かれば、それに挑戦してみよう…と、素直に思った訳です。」
「人生、そんなに甘くない!」
1回目の体外授精では片方しか卵巣がないにもかかわらず、何とか7個の卵が採卵できたYukiでしたが、Toshioの体調がイマイチで卵殻膜を破れず、受精卵はできませんでした。体外授精をすれば受精卵は当然できて、簡単に妊娠するような気持ちになっていたふたりでしたから、胚移植できないという結果を聞いた時、「こりゃ大変だ。どないしょう」とボー然とした訳です。でも今回はふたりとも、色々なデータを教えて頂いていたので、立ち直りも早く、ガッカリしつつも、2回目に挑戦することにしました。
と言うのも、病院で親しくなった人達は、みんな2〜3回している経験者が「1回ぐらいで落ち込んでいたらダメだよ。どんどん積極的に挑戦しなくちゃ」と、色々な体験を話してくれたからです。
ちょうどその頃、森本先生の気功やストレッチ教室を知り、身体を動かすのが大好きなふたりは、さっそく入会して週1回、病院で開かれるその教室へ行くのを楽しみにするようになりました。YukiだけでなくToshioも状態が良くないことが分かったのですが、ふたりは、「あきらめず、期待しすぎず、やれることはとにかく何でも挑戦してみよう」と、前向きに治療に励むことができたのが一番の収穫でした。
また、気功やストレッチのおかげで、いつも飲んでいた生理痛の薬が全くいらなくなり、体調も良くなりました。「とにかく、10年がんばってみよう。子供が与えられなかったら、結婚10年目にはスィートテン・ダイヤモンドの代わりに、スィートワンと言うことで犬を飼って我が家の子供にしよう」と、笑ったのもこの頃です。
身近な人の出産や妊娠も心から喜ぶことができ、Yukiも思いがけない仕事が見つかり、ふたりとも毎日忙しく仕事に病院、気功と元気に暮らしていました。
「顕微授精に挑戦」
そうこうする内に、2回目の体外授精の周期がやってきました。仕事や体調の都合で、1回目から半年が経っていました。1回目と違ってプロセスはだいたい分かっていたので、ふたりとも余裕を持って準備ができたのも事実です。生理3日目から排卵まで、HMGなどの注射を毎日打つのも、1回目は痛い痛いと言っていたYukiでしたが、「よく、もむといいのョ」なんて、初めての人に教えたり、排卵日が近い人と一緒に喫茶店に行って楽しんだりしていました。
排卵は8個。「また授精しなかったら、ちょっと大変だね。」(Toshio)という会話をしていましたが、たった1個だけれど、質の良い受精卵が戻せ、「大進歩、大進歩!! 一日一歩、三日で三歩!?」と喜んで、妊娠判定日を迎えました。ふつう、受精卵は2〜3個戻せる場合が多いので、「妊娠してたらいいね。」(Yuki)「あかんかったら、う〜んとおいしいご飯を食べに行こうね。」(Toshio)という期待で、結果を待ちました。
同じ日に採卵した友人が先に診察室に呼ばれ、なかなか出てこないので「Kさん、うまくいったみたいだね。」などと話していると、「+(プラス、妊娠判定)が出ているよ!」と看護婦さんに教えられ、ビックリ。
「まさか! でもホント? うれしい。」と、思わず涙がポロポロ。自然妊娠は100%ムリと言われて以来、人前で泣いたのは、これが2度目。「よかったね。」と言ってくれる看護婦さん達に、また涙。その日の内に入院となりましたが、「えっ? ホント、これは夢?」と、現実が信じられないふたりでした。
あこがれのつわりに胎動、びんちゃんガンバレ
妊娠が分かった日から入院となったので、ふたりはさっそくお腹の赤ちゃんに“びんちゃん”と名前を付け、毎日声をかけていました。このびんちゃん、なかなか活発で、お腹の形が変わるほど胎動がすごく、「ちょっと、動くの待って!」と言ってしまうほど。どんどん大きくなるお腹を眺めて、「ホントに妊娠したんだね。」と実感し、超音波のビデオや写真を飽きずに何度も何度も眺め、4冊も名付けの本を買って名前を考えました。
つわりに腰痛など、妊娠にまつわるトラブルも「これがあこがれの妊娠だ!」と思えば、「いたた」と言いつつ、何でもうれしくなってしまうのだから、不妊経験によって成長したものは、とても大きいように思います。今まで横目でうらやまし気に見ていたベビー売り場に行って、小さな服や靴下を手にとって「びんちゃん用」にと、買い込んでニコニコしているふたりでした。
こんにちは赤ちゃん。よくぞ我が家へ
骨盤が狭いYukiに加えて、びんちゃんが小さ目ということもあって、帝王切開になるかも…と、思われていましたが、無事普通分娩で、それもToshioも立ち会いができ、びんちゃんが生まれてきました。
Toshio
親バカついでに、1カ月でひとりで哺乳ビンを持って、2カ月であやすと笑い、首がしっかり座る「天才BABY」とふたりは誰が何と言おうと(?)思っていました。夜泣き(めったにしないけれど)も、たそがれ泣きも何でも、手に掛かることでも、子供が我が家に来てくれたと思えば、「ありがたく」思えてくるのですから、人間、七転び八起き。何でもできるのだから不思議です。あれ程あこがれだった、ふたりで動物園に行く日ももうすぐです。
今、実際、子供を手にして、あの小さな四分割の受精卵が、よくぞここまで大きくなってくれた…と思わずにはいられません。体外授精や現代の医学がなければ、私達は100%子供が与えられなかったと思うと、感謝の気持ちで一杯です。