(「T. I. さん」からの手紙)
私は平成元年5月、ちょうど8年前に結婚しました。結婚した当初は私も子供が好きだったもので、4人(男2人、女2人)位欲しいなあと思っておりました。結婚して1年経っても2年経っても、全くその兆しはなく、主人から、やいのやいの言われ、近くの産婦人科で診てもらったのが最初でした。当時私は、大阪から鎌倉と、環境の変化でしょうか、激痩せしてしまい、体重が39キロになりました。それで生理が止まってしまったのです。これでは赤ちゃんなんて望めないと思い、行ったのですが、まずは、この発育不全を治さなくてはいけないと、毎日注射を打ちに通い、治療に専念致しました。
それで1年半位は通ったでしょうか。発育不全の方は直り、私もようやく薬なしで少し不調ではありますが、生理が来るようになりました。しかし、赤ちゃんの方にはあまり効果があがらす、近くの人に紹介してもらったHM病院という所へ行ってみたのです。ここでは不妊治療の専門の先生もいらっしゃり、検査からきちんと受けていったのです。内膜を調べたり色々と、生理の時期、前後になると通いました。
ここへは鎌倉からでしたら1時間半位かかったでしょうか、東京見物にでも行くような気楽な気持ちで行っていました。でも、忘れられないのが卵管造影の検査、あの痛さは気を失いそうでした。思い出してもゾーッとする、いやな思い出です。
● そこへは、1年位は通ったでしょうか。それでもラチがあかないので、今度は不妊で色々と成功していると人から聞いて、東京の日赤に行ったみました。えらく待つには待つのですが、行ったら1、2分の問診だけして、次の予約をするだけで終わり、これではもっともっと日数がかかると思ったので、通院を止め、今度は私の両親から大阪の本町のNKクリニックの先生を紹介してもらい、行ってみることにしました。
また、こちらはこちらの方法があるからと言って、あの痛い、いやな恥ずかしい検査を始めからすることになりました。それに、検査料が前払いで35万円必要だったのです。しかし、これに関して主人の親は「息子の大事な給料をそんな事に使ってもらっては困る。実家のお母さんはどう言うてはんの?(実家に出してもらえ)」との事。それで、私の親も子供が産めないのは親の責任とばかりに、全額出してくれ、度々の新幹線代も送金してくれました。
でも私も、おんぶに抱っこでは申し訳ないと思い、フルタイムで働きました。主人が出張で留守の日は、ファーストフード店の夜中のメンテナンスの仕事までしたのです。でも、新幹線を往復すれば、2万5千円。バイトのお金なんて、すぐになくなってしまいました。最後には年金暮らしをしているおばあちゃんからも、小遣いをもらい通いました。
人工授精の日は、新鮮な精子を早朝取り、暗い内から家を出、一番の新幹線に乗り日参しました。その時の新幹線の中では、「この富士山、何回見たら赤ちゃん授けて下さるのか」などとつらい思いでした。大阪に来たといっても、病院で2時間位待ち、診察はたったの3分。それでまた、新幹線に揺られて帰る、むなしい旅でした。
私の新幹線に乗った回数は、ちょこっと出張するビジネスマンよりも多かったんじゃなかったでしょうか。かなりJRに貢献したものです。その間も主人からは、「3年子無しは去れ」とか「産まず女」とか、きつい言葉を受けたものです。
このように私も仕事などで、家にいなかったりした事が原因で、主人は夜遅くまで酒を飲み帰って来ず、段々とふたりの関係も不仲になり、私も働いているにも関わらず悪妻と言われ、それもこれも赤ちゃんのためなのに、主人はかばってくれず、とうとう離婚を決意!
でも、実家に帰ると世間の手前もあり、両親に迷惑をかけると思い、鎌倉の家で睡眠薬をひとビンとブランデーを1本飲み、自殺を試みたこともありました。今から考えると、あの時が最低だったように思います。あれから主人も家を省みるようになり、あまりきつく言わないようになりました。
新聞で見たのか、東京・五反田にあるK大学名誉教授I先生の所へ通うように勧めてくれ、行くようになりました。そこで初めて主人の精子を調べることになりました。ちょっと弱いが大丈夫という事で、人工授精を月3回位のペースで行ってもらいました。
その頃は主人も病院のトイレでいやな事をしてくれたり、大変協力的でした。でも、何度人口をしても成果は無かったが、ひとついい事は「今月もまた生理来ちゃったわ」と朝泣いている私に、主人が「また来月頑張ればいいじゃないか。くよくよするな」と励ましてくれるようになり、別の意味でうれしかったです。
それでも、そんなこんなで、1年半位は経ったでしょうか、漢方薬も平行するように言われ、苦く何とも言えない臭いの煎じ薬をふたりして飲みました。半ばあきらめていた時に、昔の友達が「赤ちゃんできた?」長距離電話をしてくれ、その時、体外授精で成功した友達を紹介してくれ、森本先生と出会うことができたのです。
● 始めは「またか」と、主人に言われるのがいやなので、大阪への帰省の際に「ちょっと、その病院(河内総合病院)に寄って」とお願いをし、付いて来てもらいました。先生はその日に精子検査をして下さり、2日後にもう一度来るように言われ、すぐ体外授精を勧めて下さり、そして、3月に予約を取って下さいました。
1カ月間漢方薬を飲み、頑張っていたのですが、主人はことごとく疑い、怒られることもありました。しかし、1カ月飲み続けて調べてもらった結果は、あまりいいものではなかった。それで、例外だそうですが1カ月遅らせて下さり、漢方薬を続けることになりました。それも鎌倉からでは遠いだろうと、電話で相談に応じて下さいました。そして、待ちに待った4月がやって来ました。
友達の体外授精も2回目で成功したので、私も1回でダメならもう1回かけてみようと思っていました。毎日注射に通い、卵子を取り出し、精子と合体させ、分割が始まり、体内に戻される。グレードがG3aとG3bの2つを戻し、流れないように、流れないようにと願いを込め、判定の日には通院途中で転ばないように、母親に付き添って来てもらったが、ふたりともバスの中ではその事に全く触れず、ただひたすら病院までの道のりを歩きました。
おしっこの検査の後、先生との問診で『おめでとうございます。よかったですねぇ。』、でも流産するといけないので入院することになりました。主人には申し訳ないと思いましたが、もしものことがあってはと、長期入院を許してもらいました。
その間の胎教指導などマタニティライフは、幸せの一言に尽きる、いつもピンクの気持ちでいっぱいでした。そして、こんなに長い道のりだったのに、産まれる時は陣痛から3時間半のスピード出産となり、まして本当に親孝行な子で、ひとつも苦しい出産ではありませんでした。
この子を胸に抱かせてもらって時、「この子が私達の仲に来るはずの子だったの?」と、長い道のりが吹っ飛んだように信じられない思いでした。次から次から涙が止めどなくあふれ、止めても止めても涙が引いてくれないのです。授乳室でお乳を含ませていても、自然とうれしさの余り涙がポタポタ落ちて来るのです。赤ちゃんは私の顔をじっと見上げていました。それだけ、うれしさでいっぱいだったのです。主人も月に2回は赤ちゃんを見に大阪まで来てくれました。
産後の養生も、寒い時に産まれたということで、お宮参りを2カ月も延ばし、3月9日に大阪で終えることができ、それを済ませ、東京に帰って来ました。「おめでたです」と告げられた日から1年、この世で一番幸せな日々を過ごさせて頂いた思います。こんな私に赤ちゃんが授かるなんて…。
ゴールデンウィークには主人の両親も来てくれます。首も座り、寝返りもうちかけ、何でもつかみにこようとする時期です。もうこの子がいたら何もいりません。この子のためにかかった費用でマンション1軒を買えたかも知れませんが、この子はお金には換えられない大切な大切な私の宝物で、大切に丁寧に育てたいと思います。少々夜泣きをしても、すごーいうんちをしても、おしっこをかけられても、何をしても、かわいいかわいい大事な宝物です。
本当に先生に出会えて良かった。先生に出会えてから、そんなに東京・大阪を往復することもなく、1年ちょっとで出産することができました。本当に感謝でいっぱいです。あとはまだまだ不妊で悩んでおられる方々がたくさんいらっしゃると思いますが、森本先生に出会ったら、必ず道は開かれると思います。頑張って欲しいと思います。あきらめないで、こんなに素敵な「かすがい」ができるのですから、あきらめないで、あきらめないで頑張って欲しいと思います。
本当に森本先生に感謝、友達に感謝、両親に感謝、感謝、感謝です。これからも益々この生命誕生の感動の事業に貢献して頂きたいと思います。